ライトノベルにおいて、リアリティとはともすれば軽視される要素の一つになっている、というのは言い過ぎかもしれません。
場合によっては異世界が舞台だったり登場人物が人外だったり、はては神や悪魔まで数多く登場するライトノベルというジャンルにおいては、一般的な意味でのリアリティというのは重要視されないのはある意味当然ともいえます。
しかし、ライトノベルもまたノベル、つまりは小説であるというところからは逃れられません。いくらイラストが挿入されるとはいえ、漫画のようにビジュアルで描写できない以上、ライトノベルには文章で読み手に内容を喚起させるだけの”リアリティ”が必要になります。
ライトノベルに限りませんが、フィクションにおけるリアリティにはいくつかの意味があると思います。作中を現実世界のように描写するための”リアリティ”もあれば、現実放れした作中世界に説得力を持たせるための”リアリティ”もあります。
また、一見まったく説得力を持たない荒唐無稽な描写に見えても、実はそこに”リアリティ”が潜んでいることもあります。
(図1)
この設定自体に一般的な意味でリアリティがある、などとはとても言えませんし、設定のひな型自体もコミックスやドラマなどで多数見ることのできる展開です。
しかし、「迷い猫」でもそうであったそうに、松先生はいわゆる『ライトノベル的な要素』を重視しながらも、わずかながらに現実的な要素を混じらせるのが好きな作家であるように思えます。(「迷い猫」ならば登場人物の何人かが孤児である、という部分がそれです)
「パパのいうことを聞きなさい!」でも、主人公のところに少女たちが引き取られる部分のみはリアリティを無視し、それ以降は極力現実的な展開や描写で占められています。
そして、−これは担当含めごく一部の人の感想かもしれませんが−、普通の青年が突然三人の少女の保護者になるという一見荒唐無稽な展開も、読み手の多くを占めるであろう若い男性に『こんなことでも起こらない限り家庭を持つことは難しい』と思えるということ、つまり読者の持つリアリティに合わせた展開というこいとだと思います。
なんだかよくわからない結論になりましたが、次回もライトノベルのリアリティの話をしてみたいと思います。
(担当 有冨)